舞台『ファウストの聖杯』後編

 緋奈は果心が去ったのに衝撃を受けて悲しんだ。自分の重い思いが彼を追い詰めたのだと。久秀はそんな彼女を誘惑したが、彼は果心を見捨ててはいなかった。
「俺が生きている限りは、お前もあいつも俺のものだ」
 男は女を抱きながらささやく。フォースタスが書いた原作小説では明らかな濡れ場として描いている場面だが、さすがに舞台では軽く抱き合うだけだ。
 やがて果心は久秀のもとに戻ってきた。湯殿に通され、久秀が待つ寝所に通された。その部屋はたくさんの山百合の花で飾られ、甘く濃厚な香りで満たされていた。
 先に沐浴していた久秀は、何事もなかったかのように、何食わぬ顔で友を迎えた。ゆったりとあぐらをかいてくつろぐ彼の隣では、緋奈が黙ってうつむいて座っている。
 緋奈は、緋色の薄い小袖を一枚まとっているだけだった。薄暗い部屋の中にある灯火が、彼女の白い柔肌を透かす。どうやら彼女は久秀と一緒に湯殿にいたようだが、頬を赤く染めているのは、そのせいばかりではないだろう。
 果心は、部屋の奥に敷かれている床が気になって仕方がなかった。そんな彼を面白がるかのように、久秀は言う。妖しい微笑み。実年齢よりもはるかに若々しい、肌の張りと艶。
「極上の酒と肴を用意している。今夜は、共に楽しもうぞ」

 問題の場面は、舞台ではただ「ほのめかされる」だけだ。しかし、三人の複雑怪奇なロマンスは続く。

 果心は以前、ある戦でとんでもない事態を起こしていた。過去のトラウマに苦しむ彼は錯乱し、暴走し、その強烈な魔力で巨大な火の玉を放った。それは敵を焼くだけでなく、大仏殿をも焼き尽くした。そして、その場に倒れたところを久秀の家臣に救助された。
「このままでは果心が危ない」
 久秀は自分と昏睡状態の果心の手のひらに傷をつけ、果心の手を握り締める。二つの傷は合わさり、やがて血が止まる。果心は己の魔力のほとんどを封じ込められていた。
「これもこいつを守るためだ」
 妖術使い果心居士はほとんどの魔力を封じ込められた。しかし、それでも彼は不老不死の肉体を保っていたし、ささやかな幻術を使う事は出来た。久秀は果心と緋奈を信貴山城に留め、他の群雄たちと戦った。彼はやがて織田信長に降伏したが、プライドの高い彼は信長に対する反感を持ち続けた。
「信長にとって俺はただの玩具おもちゃさ。だが、俺は奴の玩具のままではいられないぞ」
 久秀は言う。そして、果心も同様に思った。
 子供のような好奇心の持ち主。それは信長も久秀も同じである。しかし、だからこそなおさら同族嫌悪が生じるのだ。
 共感とは、好意だけではない。お互いに対して自らの影を見て忌み嫌うのもまた「共感」である。人は、他者を自己の鏡とするのだ。
 果心と緋奈は、信貴山城内の離れでひっそりと暮らしている。久秀はたまに訪れるが、ちょっとした世間話をして過ごすだけ。他には、緋奈に琴や琵琶を弾かせて聴き入るくらい。かつての「宴」は遠い夢のようだった。
 ひょっとして、久秀は、自分と緋奈がよりを戻せるように「荒治療」をしたのではないだろうか? 果心は、古くからの友がいまだによく分からなかった。

 そして、運命の時は近づいた。久秀は信長に追い詰められた。

「果心よ。お前を本心から求めている者の思いを受け止められないならば、お前は死すべき凡夫と変わらぬぞ」
 久秀は言う。
「お前、緋奈を抱えて城から飛んで逃げられるだろう? さあ、行け!」
 果心はうなづいた。彼は緋奈を抱きかかえ、外に出た。
「果心、俺を焼き尽くしてくれplease burn me out。 あの時、大仏殿にでかい火の玉をぶち込んだように。俺は商鞅しょう おうのように『墓なき者』となるのだ」
 手前にある平蜘蛛の茶釜には火薬を詰めている。この釜も果心に譲ろうとは思った。しかし、そうすれば、あの信長は何としても果心から平蜘蛛を奪おうとするだろう。
 果心と緋奈と三人での茶会で用いた思い出の茶器。しかし、これからは自分と一緒に砕け散る。
「せめて、お前たちの心の中で生き続けたい。俺はお前たちの目や耳などを通じて、これからの世の中を知っていこう」
 久秀は短刀を鞘から抜いた。

 特殊効果で、大爆破が表現される。フォースタスと私が演じる果心と緋奈はワイヤーに吊るされて宙を飛ぶ。
 場面は一転して、沖縄の海辺に変わった。
 果心と緋奈は織田信長の軍勢から逃れて、薩摩へ、そして琉球へと逃れた。誰からも邪魔されない、夫婦水入らずの暮らし。果心は奇術を披露し、緋奈は琵琶や三線さんしんを弾いて歌い、住民たちの喝采を浴びた。それで十分食べていけた。
 しかし、緋奈は果心のように不老不死ではない。果心は、彼女の最後を看取った。
 かつて久秀を弔ったように、果心は緋奈の亡骸を焼いた。そして、彼女の遺灰を琉球の美しい海に撒いた。
 さらに場面は変わって、21世紀前半の日本。不老不死の果心はスタジオミュージシャンとして生きていた。フォースタス演じる果心は、ギターを生演奏した。
 フォースタスは高校時代にギターを少しかじっていた。しばらくはギターに触れていなかったらしいが、私はフォースタスのギターの練習に付き添い、フォースタスは演奏技術が上達していった。
 この劇のエンディングテーマは私がこの劇のために書き下ろしたものだ。
 そして、私が演じる緋奈は再び舞台に立ち、最愛の人果心、すなわちフォースタスと共に歌う。物語は幕を閉じた。
 カーテンコール。手応えがあった。私たちは盛大な喝采を浴びた。



「全く、大した奴だよお前は!」
 劇は終わり、私たちは楽屋に戻った。フォースタスの二人の恩師、マツナガ博士とアーサー・ユエ先生が楽屋を訪ねてきた。さらに、何人かの訪問者がいた。
 その一人に、フォースタスの幼なじみで弁護士のランス…ランスロット・ファルケンバーグがいた。
 潔癖で正義感が強いこの人は、長い間フォースタスの不祥事を許さなかった。しかし、ランスはスコットやマツナガ博士らの説得に心を動かされて、私たちの芝居を観に来てくれたのだ。
「ランス、観に来てくれてありがとう」
 ランスは、やや困惑気味に答えた。
「フォースタス、俺は長い間お前を許せなかったけど、見直したよ。俺こそ、余計な意地を張ってしまって申し訳ない」
「ごめん、ランス。本当にありがとう」
 さらに、ルシール、ベリンダ、そしてマリリンとフォースティンのゲイナー姉妹が私に会いに来てくれた。三姉妹の長女ジェラルディンはスケジュールの都合上来られなかったのだ。
「観に来てくれてありがとう!」
「もう泣いちゃったよ〜!」
 確かにルシールの目元は泣いた後らしく赤みがかっている。ベリンダとゲイナー姉妹も舞台に感動して興奮していた。
 スコットやナターシャら劇団員たちは来客たちへの応対で精いっぱいだったが、私はふと気づいた。
 フォースティンがスコットを見る眼差しを。スコットもまた、彼女の目線に気づいて、ほんの数秒見つめ合っていた。