密約 ―『恋愛栽培』前日談―

「わしはお主の顔が見たかった…だけではないぞ」
 氏康うじやすは言う。漆塗りの箱には、敵将の首が収まっていた。
 端正な顔に、丹念な死化粧を施された、かつての知己の成れの果て。この男の首こそが、氏康と呂尚りょ しょうの契約の代償だった。
 蓮華院秀虎れんげいん ひでとら。斉の田横でん おうの末裔。その死に顔はあくまでも穏やかだった。
「お主が生きて、ここにおれば、わしの一門の女をお主に嫁がせたかったが…」
 八万の大軍を破るための密約。その代償が、かつての友の首だった。しかし、氏康はなぜ目の前の老人が秀虎の首を求めたのか分からなかった。
 この部屋には、他には誰もいない。氏康と呂尚以外には、かつての敵将の首があるだけだった。
 呂尚は言う。
「新九郎、お主はお主自身の仕事をすれば良い。この男の首は、いずれは蘇らせる」
 氏康は顔を上げた。しかし、呂尚は彼の期待を否定する。
「お主のために、今生き返すのではない。もう数百年経ってから、然るべきところでこの男を蘇らせる。お主は田因斉でん いんせい(斉の威王)を目指せ」
 呂尚は秀虎の首が収まる箱の蓋を閉め、立ち上がる。背筋をピンと伸ばした長身はまさしく、古代の大軍師としての威厳があった。
 彼は問題の首を入れた箱を抱えて、消えた。

 氏康は、しばらく呆然としていたが、先ほどの呂尚の言葉を思い出した。
「わしはわし自身の仕事をするだけ…か。なるほど、確かにあのお方の言う通りだな」



「お疲れ様でーす!」
 撮影スタッフが声をかける。北条氏康はいかにも不満げな顔で、ミネラルウォーターを口にする。太公望呂尚はアイスコーヒーを飲んでいる。ブラック武藤、じゃなくて無糖だ。
「あの…私の出番はこれだけですか?」
「仕方あるまい。お主の『Avaloncity Stories』での役目は、あくまでも『蓮華院秀虎を戦死させる』だけなのだからな」
「『関東の雄』とも『相模さがみの獅子』とも呼ばれた私がこんな扱いですか!?」
「まあまあ、落ち着け。新九郎」
 呂尚はあれこれメモをしている台本を団扇代わりに仰ぎながら、ボヤく。
「紫苑の奴、いまだに次回作のアイディアがまとまらないのだな」
 氏康は黙っていた。そんな事、知ったこっちゃない。彼は残りのミネラルウォーターを一気飲みした。

 このろくでもない、素晴らしき(?)世界。ある日のアヴァロンシティ第三スタジオの様子である。