恐るべき借り物

 女が病床に横たわる。男は彼女の手を握りしめる。隣には医者がいる。周りにも後ろにも何人かいる。
「私、死ぬのは怖くはありません。ただ、あなたを残していくのが心配です」
「加奈…!」
「どうか泣かないで。またいつか、あなたに逢えるはずです」
 そして、加奈は目を閉じた。もう、息はない。
 秀虎は、声もなく涙を流した。
 それが、彼の回想であり、彼が現世に蘇生して初めての「初夢」だった。



「死が二人を分かつまで…か」
 黒のライダースジャケットに黒のジーンズを着込んだ男はつぶやいた。年格好はだいたい30歳前後で、長身である。
 男は、ある街の雑居ビルに入った。この国の「今の正月」は、日本の「今の正月」ほどには盛り上がらない。いわゆる春節(旧正月)こそが、よっぽど新年の祝いとして盛り上がる。
 普段ならば、年末年始は、現代人としての仕事仲間と一緒に飲み会をしているのだが。いずれにせよ、彼が今回ここに来たのは、観光目的ではない。
 そのオフィスの主人は、年格好が40歳前後で、精悍な顔立ちとたくましい長身の男だった。ライダースジャケットの男よりも10cm近く高い身長だ。
「新年早々、何だ?」
「生前のあなたの時代では、この時期はまだ『新年』ではなかったでしょう」
「お前の時代もだろうが。屁理屈言うな」
「これは失礼」
「それで、何の用だ?」
「呂先生のご依頼で、『あの剣』をお借りしたいのですよ」
「あの剣…って、あれか? 正気か?」
「我々〈アガルタ〉の計画には色々と邪魔が入るでしょう。だから、念のためにですね」
「…あのなぁ…、バカな事を言うな。今の武器で言えば、核ミサイルを貸せと要求するようなものだぞ?」
「ですから、それぐらいの非常事態があり得るという事です」
「…頭が痛くなるわ」
 アルマーニのスーツに身を包んだオフィスの主人は、金庫から細長い箱を取り出した。
「呂先生の頼みならば、仕方がない。持って行け」
「ありがとうございます。問題が解決すれば、必ず返しに来ます」
 ライダースジャケットの男がオフィスを立ち去ってから、奥の部屋から別の男が出てきた。ひょうひょうとした雰囲気の、長身で細身の体格である。

子胥ししょ殿、あの淮陰わいいんの息子かい?」
「ああ、果心の奴め、また厄介事を持ち込んできおった」
「まあ、色々と話は聞いたけど、問題のカップルが僕らの計画には必要なんだね」
「お前は『兵法の神様』としてはどう思うんだ?」
「『恋は戦争』…ね。まあ、なるようになるしかないんじゃない?」
 ひょうひょうとした男は、台所でお湯を沸かした。
「ハイビスカスとローズヒップのハーブティー。おいしいよ」
 二人の中年男のティータイム。新年の過ごし方としては、いささかわびしかった。
「なあ、長卿ちょうけい。恋が戦の一種ならば、やはり『戦わずして勝つ』のが上策なのか?」
「ん…? ひょっとして誰かお目当てがいるの?」
「別に…」
 オフィスの主人は微妙に照れていたが、もう一人の男はそれ以上はあえて追及しなかった。



 元日の朝、加奈子は起きた。何か夢を見たような気がするが、具体的に何の夢を見たかは覚えていない。彼女は時々ブログで夢の話を書くのだが、今年の初夢を覚えていないのは残念だった。
「あけましておめでとうございます。ヒデさん」
 倫と小百合が迎えに来たので、加奈子は二人と一緒に近所の神社にお参りに行った。もちろん、秀虎はお留守番だ。
 小百合は晴れ着姿だったが、加奈子は普段の冬支度だ。
「今年は良い年でありますように。そして、ヒデさんが元の体を取り戻せますように」
 おみくじは、中吉。

「ただいま~」
 加奈子は倫と小百合と一緒に家に帰った。秀虎と一緒にお雑煮を食べて、二人は帰った。
「さて、今年初の水の取り替えね!」
「いや、正月早々大変だろう。一昨日取り替えてくれたし、もう二、三日経ってからで良いぞ」
「そうか、ありがとう」
 秀虎は生首だけだが、生きている。その秀虎が入っている水槽の水も、ある程度経つと汚れるから、加奈子は数日置きに水を取り替えている。そして、水道代の節約のため、加奈子は湯船を使わずにシャワーを浴びるだけだ。
 秀虎の頭から伸びる「根っこ」はだいぶ成長している。しかし、本当に元の体に戻れるのだろうか?
「いつもありがとう」
 その感謝の言葉があるからこそ、彼女は彼の世話が出来る。
 加奈子は小説執筆作業を再開する。それは女神と青年の恋物語だ。この主人公の青年の名前は「漢の三傑」の一人に由来するのだが、彼が目標とする大物ピアニストの名前は「神楽坂嘉毅かぐらざか よしき」という。そう、この名前も『史記』に列伝がある名将に由来するのだ。
 楽毅がく き韓信かん しんの関係は、ギリシャ神話のアテナとアラクネのようなもの。あるいは、マドンナとレディー・ガガだろうか? 先輩と後輩、師匠と弟子の緊張。
 何しろ、楽毅が斉王にならなかったのに対して、韓信は本当に斉王になってしまったのだ。これは、楽毅や太公望にケンカを売っているようなものだ。
 加奈子がパソコンに向かっている間、秀虎は黙ってラジオを聴いている。加奈子がレディー・ガガの事を考えていると、偶然そのガガの曲が流れた。しかも、問題の「Born This Way」だ。
 この曲はマドンナの曲に似ていると言われたが、80年代の日本の音楽業界にも、洋楽のパクリっぽい曲がいくつかあった。加奈子は、当時中学生だった親船から色々とそういう話を聞いている。
 彼女はパソコンを通じて、自らの物語を押して叩いていた。

 1月もすでに中旬。加奈子は公私共に忙しい。事務員の仕事は比較的のんびりしているが、3月辺りになると、転勤や新入学などの顧客が出入りするので、その分あわただしくなる。
 涼子や若菜も忙しいようだ。しばらくは、彼女たちと映画を観に行くなどの楽しみはない。
 その代わり、今の加奈子にとって一番の楽しみは、秀虎に本の読み聞かせをする事だ。これは秀虎にとってのみならず、彼女自身の勉強にもなる。
 倫と小百合は時々遊びに来る。倫は秀虎から生前の話を聞いているが、どうやら倫は、北条氏に主家を滅ぼされた秀虎に対する遠慮なのか、『信長の野望』を北条氏でプレイする気がなくなってしまったようだ。
 秀虎が言うには、自分と仲が悪かったある同僚が北条軍に内通して裏切ったというのだ。いくら戦国の世とは言え、やはり忸怩たる思いがあるのだろう。
 しかし、秀虎は北条氏康ほうじょう うじやすという個人に対しては敬意を抱いていた。

 深夜。加奈子はすっかり熟睡している。生首との同棲生活に慣れ、彼女は安心し、充実していた。
 秀虎は、水槽から「根っこ」を伸ばし、そっと加奈子の手を握った。
 その「手」には、かすかにぬくもりがある。
「加奈…」
 秀虎は、加奈子のあどけない寝顔を愛しげに見守っている。生前の妻・加奈に生き写しの女。
 太公望呂尚が言うには、彼女は加奈の兄の末裔である。しかし、加奈子自身はそのような事は全く知らない。
 秀虎は、「手」を水槽に引き戻して、目を閉じた。
「お休み」



 ライダースジャケットの男は、すでに日本に戻っていた。彼は自室で、問題の「ブツ」を箱から取り出した。
 黒い鞘から、剣を抜く。妖しく光る刃は、まさしく「魔剣」と呼ぶにふさわしい凄みがある。その柄には、ピカピカに磨き上げられた黒い石がはめ込まれている。
「まずは試し斬り…という訳にはいかん」
 何しろ、彼があのオフィスの主人から借りたものとは、危険極まりない「凶器」なのだ。悪霊を断ち切って「無」にする魔剣。あの主人も言う通り、核ミサイル級の危険物だ。
 彼は剣を鞘に戻した。それは徐々に小さくなり、彼の左手に吸い込まれた。
「某死刑囚なんぞは、生前の無神論・唯物論に従って、サッサと魂が霧散したんだ。魂が消えたからには、被害者遺族の『地獄に堕ちろ!』という呪いからまんまと逃げおおせたのだな」
 彼はギターケースを背負って、仕事場に向かった。有名ミュージシャンも少なからず利用する、レコーディングスタジオだ。