罪を満たす杯

「チクショウ…!」
 俺は馬鹿だ。大馬鹿野郎だ。自分の両親と同じくらいに尊敬している恩師の妻である人と道ならぬ関係になってしまったのだ。
 ライラは、実に蠱惑的な女だ。俺はまるで、女に対する免疫のない童貞チェリーのように、彼女の美と性に身も心も撃ち抜かれた。
「かわいいフォースタス。私も溺れるわ」
 彼女を含めて、俺には「恋人」と呼べる女が六人いた。そのうち、初恋相手の女の子とは、キスさえもしていない清い関係だった。何しろ、まだ中学生だったのだ。プラチナブロンドの髪に空色の眼の美少女だった彼女は、名前をヘレナといったが、彼女は不慮の事故…十年前のモノレール爆破事故で亡くなった。
 二番目の恋人は、高校の演劇部の先輩だった。俺が作家活動の傍ら、友人の劇団に参加しているのは、この部活動で芝居の面白さに目覚めたからだ。そして、問題の先輩こそが俺の初めての「女」だったが、飽きっぽい彼女はサッサと俺を捨てて、他の男に乗り換えた。
 他の歴代恋人については、今さら振り返るのもバカバカしい。
 ライラ。俺の「ファム・ファタル」。

 俺は、タブレット端末に向かった。
『ファウストの聖杯』、それが俺の執筆中の小説のタイトルだ。
 これは、主人公の松永久秀が所有していた茶釜「平蜘蛛」を意味する。そして、久秀は敵の降伏勧告を拒み、この茶釜を抱えて爆死した。あたかも、ゲーテのファウスト博士のモデルになった人物のように。
 なるほど、あのマツナガ博士のフルネームは、いかにも「出来過ぎ」だ。
「あの人は食えない人だけど、史実の久秀もあんなんだったのだろうな」
 聖杯とは、アーサー王伝説のキーアイテムの一つである。そして、アーサー王伝説とファウスト伝説は、互いに補完関係にある。「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という言葉があるが、アーサー王は言うまでもなく「王侯」であり、ファウスト博士は「将相」の候補者なのだ。そして、中国史の春秋時代と戦国時代とでは、アーサー王伝説とゲーテの『ファウスト』ほどのムードの違いがある。
 だから当然、ユエ先生と俺のファーストネームの組み合わせも皮肉なものだ。それに、俺の幼なじみで一番の親友である奴の名前は「ランスロット」だけど、そのランスではなく俺が「ランスロット」になってしまうのは実にややこしい事態だ。
 もしランスの奴が一人前の弁護士になったら、俺が何か不祥事を起こした場合に弁護してくれるだろうか? まあ、筋を通すあいつの事だ。明らかに俺に非があるならば、まずは依頼を引き受けないだろうな。
 ましてや、今の俺の過ちならば、なおさら。
「そういえば、しばらくランスに会っていないな」
 ランス…ランスロット・ファルケンバーグ(Lancelot Alastor "Lance" Falkenburg)は七人兄弟の長男で、アヴァロン大学の法科大学院に通う苦学生だ。そして、すぐ下の弟ロビン(Robin Jay Falkenburg)はプロボクサーとしてデビューしたばかりだ。父親は大学講師だが、母親は居酒屋を経営している。ランスとロビンはハングリー精神の塊だ。特にランスは一見冷徹そうに見えるが、実は熱い男だ。

 外には犬の散歩をしている老婦人がいる。その老婦人は、どことなくベテラン司会者の「マダム・コンピー(Madame Compee)」ことグロリアーナ・デ・コンポステーラ(Gloriana de Compostela)に似ている。ファッションセンスもどことなくマダム・コンピーを彷彿とさせるし、犬もまた派手な服を着せられている。しかし、あの犬が必ずしも天然の犬だとは限らない。なぜなら、人間の言葉を話すロボット犬などの「人造ペット」たちはありふれているからだ。あの犬はそれらしく、ショッキングピンクの毛皮を身に着けている。見るからに悪趣味だ。
 そんな悪趣味なペットを連れている人間は、自らの体に動物の耳や毛皮や鱗や尻尾などを移植しているアウトサイダーが多い。乳房や性器を複数移植している奴らもいる。
 俺は、部屋の片隅に置いてあるギターケースに目を向けた。高校時代にちょっとかじったけど、部活動は軽音楽部ではなく演劇部だった。バンドを組んでいた友達から、ヴォーカリスト兼ギタリストとして誘われた事があったけど、俺は断った。
 試しに弾いてみようか? いや、俺のギターの腕前はかなり錆び付いているだろう。そもそも、弾く機会自体ない。歌は、たまに友達とカラオケ屋で歌うくらいだ。
 まだ夜ではない。しかし、今の俺の精神状態からして、今夜もまともに眠れそうにないだろう。