恵みの水

 フォースタス・チャオの名誉回復はほぼ果たされた。そう見なしても良いだろう。もちろん、いまだにかつての彼の醜聞に対して非難する者たちはいるが、そのような声は他のニュースにかき消されるだけだ。三文ゴシップレストランのメニューは常に更新されている。
 彼はマダム・コンピーの番組にゲスト出演したが、おおむね好評だった。
 名司会者グロリアーナ・デ・コンポステーラの本業は舞台女優だ。御年70過ぎのベテラン女優である彼女もまた、舞台版『ファウストの聖杯』を観劇していた。そして、フォースタスらの楽屋を訪問していた。
 シャーウッド・フォレストの主宰スコット・ガルヴァーニの知名度は一気に高まり、様々なメディアでの露出が増えた。彼が出演する映画やドラマはことごとく評価が高かった。
 フォースティン・ゲイナーは頬を赤らめる。
 彼女は姉マリリンや友人ルシールらと共にあの舞台を観劇し、アスターティのいる楽屋を訪れたが、そこで初めてスコット・ガルヴァーニという男に出会った。そして、自分の彼への眼差しに驚いた。
 あれは一目惚れだ。
 スコットもまた、彼女の目線に気づき、二人はほんの数秒見つめ合っていた。ほんの数秒だけ、二人の時間は止まっていた。
「どうしよう…。私は一般人なのに、あの人は売れっ子芸能人。アスターティとフォースタスのようにはいかない」
 フォースティンはさらに顔を赤らめる。

 もうすぐ春だ。


「どうだい、メフィスト? 調子は良いかい?」
「特に問題はないよ。肉体的にも精神的にも、特におかしくはなさそうだ」
「でもまあ、一応、出発前に身体検査を受けてもらうよ」
 アガルタの一角に、色々な動物たちが住む区域がある。メフィストと呼ばれる雄のミニチュアブルテリアも、その一員だった。
 彼は、人間と同等の知能と言語能力を持つサイボーグ犬である。彼は喉に組み込まれた装置によって、人間たちと会話が出来る。
 研究員の一人である獣医師リチャード・タヌキコウジは言う。
「君がどれだけ外界に慣れられるか心配だけど、やっぱり怖いかな?」
 メフィストは言う。
「確かに多少不安だけど、それ以上に楽しみだよ。それに、俺たち犬は人間好きが多いんだし」
 リチャードとメフィストは話し続ける。
「それで、俺の『モニター』というか『マスター』になるフォースタスという人は、アスターティの婚約者なんだな?」
「うん。あの二人なんだけど、アスターティが高校を卒業してから一緒に暮らす事に決まったんだ。アスターティはアヴァロン大学の入試に合格したし、すでに引っ越しの準備をしているようだよ」
「ふーん。ドキドキするけど楽しみだな。俺、早く外の世界に出たいな」
「だけど、メフィスト。君はただの犬じゃないんだから、正体がバレないように気をつけなきゃ。ただでさえ、某カルト集団の連中がいるんだからね」
 メフィストは首を傾げた。
「その問題の奴らって、一体何なの?」



「やっぱり桜ってきれいね、フォースタス?」
「ああ、いい写真が撮れるな」
「今年もドンドン撮るわ」
 桜吹雪が美しい4月。アスターティ・フォーチュンは、アヴァロン大学文学部英文学科に進学していた。そして、婚約者である作家フォースタス・チャオとの二人暮らしを始めた。
 いや、二人だけではない。アガルタから来たサイボーグ犬メフィストも一緒だ。
 二人はすでに婚約を発表している。隠す必要のない、公然の仲だ。
 アスターティは、カメラのシャッターを切りながら言う。フォースタスは、そんな彼女を温かな目で追っている。
「この絶妙な色加減がいいのね。濃過ぎても、薄過ぎても、バランスが良くないの」
「毎年撮っても飽きないか?」
「全然。毎年同じ桜の花なんてないわ」
「まあ、孫子の兵法なんかでも、全く同じ戦争なんて一つもないらしいし」
「やだ、フォースタス。そんな例え」
「ごめん」
 フォースタスは、足元にいるメフィストに訊いた。
「おい、メフィスト。お前、大の方は大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ。さっき家でしっかり踏ん張って出し切ったからな」
「水、飲むか?」
「うん、ありがとう」
 フォースタスはバッグから犬用の水の容器を取り出し、メフィストに水を飲ませた。
 アスターティは一通り桜の写真を撮り終え、ふたりに声をかけた。
「あのオープンカフェでお昼にしましょう」
 二人と一匹は、公園の中にあるオープンカフェに向かった。
 心地よい南風が、桜の木々の間を通り抜ける。
「ファウストの聖杯」
「え?」
「聖杯は人間に恵みの水を与える。俺にとってお前は聖杯なんだよ」
「フォースタス…」
「ありがとう、アスターティ」
 桜吹雪がさらに美しく映える。恋人たちを祝福するように。