弱みの取引

 パトカーや救急車のサイレンが鳴り響く。また事件が起こったのだ。
 現代のパトカーや救急車や消防車などの緊急車両の大半はエアカーだ。それらはその役割ゆえに、通常のエアカーよりも高く宙に浮いて走る事が認められている(非常時は通常車両の上に浮かせて走らせる事が許可される)。一般車両の多くはタイヤで直接走るものだが、これらも電力で動く。これらは直接車体にソーラーパネルを取り付けているものも珍しくない。
 セントラルパーク近くの繁華街にあるファッションビルには、巨大な水槽を模したディスプレイがある。それには可憐な人魚たちが泳ぐ極彩色の映像が映し出されている。まるで竜宮城。いや、あるいはアヴァロンシティという現代の「ビッグ・アップル」そのものこそが巨大な竜宮城なのだ。この巨大な資本主義の水槽の中で、住人たちや観光客たちは楽しみそのものを楽しんでいる。
 人生は朝露の如し。酒に対してまさに歌うべし。
 不夜城アヴァロンシティは常に極彩色に輝いている。その輝きこそが「世界の首都」の威厳とプライドを示す。

「明日、あいつと会うのか、アート?」
「ああ、久しぶりにあの子と一緒に外食したいのでね。僕のゼミにいた他の連中と一緒でなくて、二人きりで」
 フォースタス・マツナガは、あるバーでアーサー・ユエと酒を飲みながら語らっていた。アーサーは、この男を教え子フォースタス・チャオとの区別のため、この男のミドルネームを縮めて「ヒサ」と呼んでいる。
 フォースタス・チャオが生まれてから、アーサーはフォースタス・マツナガをそう呼んでいるのだ。
「お前、あいつのおふくろのクラスメイトだったんだろ? 本当はあいつの父親じゃないのか?」
「馬鹿な事を言わないでくれ、ヒサ。ミサトはあくまでもただの友達だよ。それに、あの子はどう見てもシリルそっくりじゃないか。DNA鑑定で一発で分かるだろ?」
「まあな。だがな、アート。お前はシリル以上にあいつの父親みたいなもんだよ」
「そうかな…?」
 シリル・チャオ(Cyril Hercules Chao)、御年62歳。邯鄲ハンタンホールディングスの会長にして、理学博士ミサト・カグラザカ・チャオの夫。最初の妻との間に二人の息子が、今の妻ミサトとの間に一人の娘と二人の息子がいる。フォースタスは、チャオ家の三男だった。
 そして、シリルの母ケイトリン・オコナー・チャオ(Caitlin Dana O'Connor Chao)は大御所作家であり、フォースタスはこの祖母の文才を受け継いでいる。アーサー・ユエもまた、この大物女性作家を目標にしてきた。
「そろそろ、ヤンが迎えに来る頃だな」
 ドクター・マツナガは、グイッとウィスキーをあおった。



「フォースタスか…」
 アーサーは自宅に戻り、自室にこもった。ライラもマークも、すでに寝ているようだ。今日も明日も、フォースタスがライラの絵のモデルとして我が家を訪れる事はない。そもそもフォースタスには本業やテレビ出演などのスケジュールもあるのだから、毎日この家…ライラのアトリエには通えない。
 フォースタス・チャオ。自分の教え子たちの中でも、特に思い入れのある男。確かに彼は、同名のフォースタス・マツナガも言うように、半ば我が子のような存在だった。フォースタスと彼の幼なじみランスロット・ファルケンバーグは、幼いうちから家族ぐるみの付き合いがある。自分とフォースタスの付き合いは、ライラとの関係よりもずっと長い。
「どうも、マークはあの子を嫌っているようだな」
 アーサーは思う。マークは明らかに父の教え子である男を避けている。実の息子である自分以上に父に愛されている。本人はそう感じ、嫉妬しているのだろう。
 そのような嫉妬は芸能界の子役スター同士にもあった。アーサーが中学校進学を機に芸能界を引退したのは、ライバル同士の足の引っ張り合いに嫌気が差したからだ。
「眠い…」
 明日は久しぶりに教え子フォースタスに会うのだ。そろそろ寝よう。



 フォースタス・マツナガは、アガルタの職員宿舎の中にある自室に戻っていた。彼は歯を磨きながら、アーサー・ユエとの会話を思い出す。
「あの二人、どちらも何か隠しているな」
 特に、若いフォースタス…「坊主ラッド」フォースタス・チャオは怪しい。
 口をゆすぎ、歯ブラシを軽く水で洗う。口をタオルで拭き、寝室に向かう。
「多分、女だ」
 フォースタスは思う。
 かつて、彼はある女と熱烈に愛し合っていた。彼女は医学生時代の一年先輩の日系人で、黒髪と色白の肌が映える可憐で蠱惑的な美女だった。
 ヒナ・マツナガ(Hina Astarte Matsunaga)。たまたまフォースタスと同じ苗字の彼女は、フォースタスがアガルタを出てから初めて出来た友人だったが、二人の関係はほどなく「恋愛」に変わった。
「何でも知っている女神」
 フォースタスにとってヒナはまさしく女神だった。二人は同棲していたが、ヒナの誕生日祝いのデートで海に出かけた際に、揃って溺れる子供を助けようとした。しかし、ヒナはその子の命と引き換えのように死んでしまった。まるで、海から生まれた女神が海に還るように。
 アスターティ・フォーチュンの名前はヒナのミドルネームに由来する。そして、二人は同じ7月7日生まれだ。

「俺の女神」

 フォースタス・マツナガは初恋の女性と死に別れてから、色々な女たちと付き合ってきたが、ヒナに勝る女はいない。
 多分、これからもヒナのような女には巡り会えないだろう。
 部屋の灯りを消し、彼はしばらくベッドに横たわりながら天井を見つめつつヒナの思い出に浸っていたが、やがて睡魔が取り憑き始めた。
 今夜はどんな夢を見るのだろう?