「重い男」の物語 ―本田透『電波男』―

 ある夜、眠れなかったので徹夜で本田透氏の『電波男』を読んだ。ハッキリ言って、桐野夏生氏の小説『グロテスク』以上に重い。本当に当人の身の上話は全部事実なのかという疑問もあるが、たとえ話半分でも「重い男」ぶりを感じさせる内容なのだ。ネタ的な記述が点在しても、私は笑えない。ブス芸人がバラエティ番組で体を張る場面を正視出来ないのに似ている。むしろ、いわゆる「性的弱者」である分、当人の男性としての「闇」を感じさせる。
 これは「性的強者」男性が表立って露わにしないだろう。いや、「性的弱者」の自覚のある男性でもここまで暗く生々しい本音をさらけ出さない。自らの生皮を剥いで見せつけるような痛々しさは、読んでいてつらい。なぜなら私は、本田さんに対して性差を超えた「近親憎悪」を抱いてしまうのだ。要するに、もし仮に自分が男に生まれていたならばあり得ただろう、「あってはならない自画像」なのだ。私にとって本田さんのような人は「男のメデューサ」なのだ。

 もし仮に本田さんが女性だったら、明らかに「イタい女」と見なされていただろう。まさしく満身創痍、とても正視出来ない。自覚的に「イタい女」を売り物にしている女性作家として中村うさぎ氏がいるが、そのうさぎさん以上に、女性だった場合の本田さんは「メデューサ」的なおぞましさを見せるだろう。

 この本を読んで、無邪気に「男性の本音を知る事が出来て楽しかった」などという感想を述べる女性は、私にとっては本田さん本人に対して感じるのとは別の「怖さ」を感じる。いや、ハッキリと「不快感」と言うべきだろう。要するに、あくまでも他人事に過ぎないから「ネタ」として消費出来るのだ。私が本田さんだったら、そんな傲慢な余裕を見せつける感想を述べる女を憎むだろう。
 酒井順子氏が本田さんに対して余裕のある姿勢を見せたのは、それこそが相手のプライドを効果的に傷つけるから、意地悪な安心感を持った上でそうしたのではないかと思う。酒井さんはうさぎさんのような「女王」キャラではない。しかし、本当に「女」として恐ろしいのはうさぎさんよりも酒井さんである。古典的かつ単純な男性原理で物事を考える男性には、酒井さんの女性としての恐ろしさが分からない。しかし、「決して単純な男ではない」本田さんは、おそらく本能的に酒井さんの恐ろしさを感じたのだろう。

 本田さんやうさぎさんは気前良く自らの「イヤ汁」をぶちまけて「芸風」にしたが、酒井さんはあくまでも「君子危うきに近寄らず」路線を保つのだ。それだけに、自ら様々なコスプレをする企画のエッセイシリーズは意外過ぎて驚いた。実践主義者のうさぎさんならばちっとも意外ではない。むしろ「やって当然」とすら思われただろう。この企画は「傍観者キャラ」の酒井さんが行なったからこそ意義やインパクトがあったのだ。