地獄の住人としての女たち ―桐野夏生『グロテスク』―

 世の中には様々な姿勢や価値観の女性たちがいる。さらに、いわゆるフェミニストを自認する女性たちにも色々な「流儀」「流派」がある。そして、女の数だけ「女心」があるように、フェミニストの数だけ「フェミニズム」はあるのだ。

 私はインターネットを始めてから、フェミニストを自認する何人かの女性たちと知り合った。しかし、私は若い彼女たちとは意見が合わず袂を分かつようになった。ある人は自分より恵まれた同性に対する嫉妬や劣等感を男性蔑視でごまかし、またある人は自分が性的マイノリティであるのを鼻にかけて世間一般の「平均的な」女性たちを見下しているようだったし、どうも付き合いづらい相手だったので、私から縁を切った。下手な成人女性よりも未成年女子の方が精神的な残酷さが露骨に現れる(しかし、それでも未成年女子に対して幻想を抱く成人男性は多い)。そして、前述の彼女たちはまだ20代だったから、10代の頃の残酷さが残っていたのだろう。
 もし彼女たちが桐野夏生氏の『グロテスク』を読んだら、彼女たちはどんな感想を述べるだろうか?

『グロテスク』にはヒロインクラスの女性キャラクターが三人いる。一人は「東電OL殺人事件」の被害者がモデルのエリート会社員「和恵」、もう一人はかつて絶世の美女だった娼婦「ユリコ」、そして、そのユリコの姉であるメインの語り手「わたし」である。他には「わたし」の友人だった秀才「ミツル」もいるが、彼女が語り手となる章がないので、ヒロインクラスのキャラクターとは言えない。さらに、ユリコと和恵を殺したとされる中国人男性「チャン」も語り手の一人だ。
 ただ単に東電OL殺人事件をモチーフにするなら、本来ならば事件とは全く無関係のオリジナルキャラクターである「わたし」とユリコの「平田姉妹」は蛇足である。しかし、おそらく桐野氏は実際の事件との距離を取るためにこそ平田姉妹を物語に投入して前面に出したのだろう。もしかすると、元々別の小説の登場人物としてあたためていたアイディアを組み込んだのかもしれないとすら思える。平田姉妹のような同性の肉親同士の確執を描くならば、わざわざ実在事件と組み合わせる必要はない。しかし、それでもなお必然性はあったのだろう。

 この小説のテーマは表向きは「女の怖さや醜さ」だが、裏のテーマは「ヒエラルキー」と「レイシズム」だ(平田姉妹はハーフで、なおかつ二人の間に容姿格差がある)。まあ、レイシズム自体が白人至上主義に基づくヒエラルキーなのだが、平田姉妹は白人の血を引くのを鼻にかけていた。そして、中国人のチャンは「日本人ではない」ゆえに日本人たちに差別される。女性キャラクターたちは高校時代からの同性間ヒエラルキーで苦しみ、チャンは中国の圧倒的な格差社会に苦しんできた。

 おそらく、この小説の人物の中で一番精神的に自由だったのはユリコだろう。そして、逆に一番精神的に不自由だったのは他ならぬ「わたし」だ。客観的で達観したポーズを取る冷静な「わたし」、そう思っていたら、他の語り手たちによって彼女が単なる哀れな俗物に過ぎないのを明かされる。そして、チャンと亡き妹の関係が平田姉妹の関係を暗示させる。ユリコは「姉が処女だろうと、同性愛者だろうと、もう私の知ったことではない」と言ったが、彼女は姉「わたし」の密かな欲望を見抜いていたのではないだろうか?
 それを証明するのが、ユリコの息子「百合雄」だ。名前通り母ユリコの分身である彼は絶世の美少年だが、生まれつき目が見えない。つまり、彼自身は他人を外見で判断しようがない。異常なまでに他人の外見にこだわる「わたし」とはユリコ以上に対照的な存在だが、「わたし」はこの実の甥を溺愛する。その溺愛は明らかに単なる親族の愛情とは異質な気味の悪さがある。やはり、「わたし」のユリコに対する憎しみとはレズビアン的かつ近親相姦的欲望の裏返しだったのだ。

 上野千鶴子氏はこの小説を「東電OLのリアリティの再構成に成功しているとは思えない」と批判したが、おそらく桐野氏が本当に一番描きたかったのは東電OLの分身和恵ではなく平田姉妹だっただろうし、上野氏の批判は過小評価気味だと思う。