天道に是も非もない

 近藤勇が自分のゲンコツを口に入れる宴会芸を身につけたのは加藤清正の真似らしいが、ならば、清正はなぜゲンコツ宴会芸を身につけたのか? ひょっとして、さらに昔の人の真似をしたのか?


 なるほど、歴史は繰り返す。


 中国の正史トップスリー、『史記』『漢書』『後漢書』の編著者たちにも似たような(?)因縁がある。宮刑に処された司馬遷を批判した班固は獄死したが、その班固をさらに批判した范曄は刑死した。ん? ひょっとして、そんな范曄をさらに批判した後世の歴史家が、さらにそんな先輩たち同様に不運な目に遭い、そんな歴史家がさらに別の歴史家に批判され、その批判した歴史家がさらに同様の目に遭う…という「不幸ループ」なんて事態があったのではないのか? だとすれば、それは運命の女神の残酷な気まぐれだろう。

 人間が歴史を学ぶ必要があるのは、過去の過ちを繰り返さないためである。しかし、神々にとってはそれは「不遜」であろう。世界各地の神話には、神々が人間の「不遜」を罰する話が色々とある。その多くは理不尽極まりない。私は「神」とは「公正な政治家」ではなく「気まぐれな芸術家」だと思っている。そもそもいわゆる「無神論者」とは、「神=絶対善」を前提にしているからこそ「善とはほど遠い世界に神なんているものか!」と思った上で無神論者を自認・自称するようになったのだろう。

 ただ、この「神=絶対善」というのは、あまりにも安直な決めつけだ。ある人にとっての「善」は、その人の敵にとっては「悪」である。万人共通の「善」などない。いや、そもそも「善悪」というもの自体がご都合主義次第で前後左右に揺さぶられる。要するに、「天道是か非か?」に対する回答は「天道に是も非もない」のだ。善悪など、しょせんは人間の都合次第だ。


 小説や漫画を読もう。映画やドラマを観よう。そこには様々な「問題」がある。何の問題もなく「ドラマ」など成り立つか? 世界は劇場、我々は役者、そして神々は脚本家や演出家だ。